Quack Clinicへようこそ 巻の3

ノート4 物流が崩壊した世界で

 故郷の町に着いて、そろそろ医薬品の在庫が心許なくなっていることに気付きました。
 父上殿は素知らぬ顔をしていました。
 それは、結局、医薬品の補充はすでに私の仕事であるということを示しているような気がしました。
 せっかく学校まで出たのですから、自分の仕事をするべきだと私は思いました。
 早速、薬草探しに出かける準備をしました。
 この辺り一帯の薬草の生えそうなところといえば、私は幼い頃から父について出かけることも多かったので、大体の地理は分かります。
 そこで、何か適当なハーブでも見つけてくれば、薬を作ることもできると思いますし、不定期で訪れる薬売りと物々交換してもらえると思います。
 この世界の物流と言えば、薬売りがその役割を果たしています。
 一家に一つ常備薬を持っている家庭が多いので、薬売りはその補充をするのが主な役割です。
 常備薬を使った分だけ対価を支払うというシステムだけが、世界が今のようになってしまう前から続く伝統的商法として残されています。
 他にも郵便事業や、ちょっとした日用品の類は薬売りが売りに来てくれます。
 薬売りが来ればすぐに分かります。
 駅前広場にちょっとした行列ができるからです。
 他にも物流はあるのですが、例えば、私が乗ってきた汽車などがそうです。
 貨物列車も編成に入っているので、そこでハムやソーセージ、缶詰などの加工食品等を手に入れることができます。
 しかし、この汽車は、目的地まで向かう人がある程度集まると運行される、最小敢行人数方式をとっているので、正直、待っているといつになるのかさっぱり分かりません。
 そんな状態なので、人々は自然と自給自足を迫られます。
 医薬品だって例外ではないのです。
 私は、薬草の探索にロングブーツを選びました。
 山登り専用というわけではないのですが、触るとかぶれる植物も多いので、足の露出は最小限にしたかったのです。
 ふと、顔を上げると、父上殿が私の部屋の入り口に立っていました。その手には無骨な水筒が握られていました。
「持って行きなさい。水は役に立つ」
 私は父上殿が、私の探索をすっかり予期していたのだと思いました。その水筒は古いけれどもきちんと手入れされていました。
「ありがとう」
 色あせた無骨な水筒本体に新しいストラップが付いています。これは後から交換したのでしょう。

ノート5 うららかな人工林の中で

 私は町から山へ向かう道を歩き始めました。
 十五分も歩くと文明的な道はフェードアウトして、獣道的な道へと変わっていきます。
 それでも、道らしきものが存在するのは、しばしば町の人が狩りに出かけたりするからです。
 途中で、崖崩れの現場に遭遇しました。慎重に迂回して進みます。
 その昔は、公共事業というものがあって、こういう風に地盤の弱い土地には積極的に土木工事が行われていたようです。
 しかし、今の国土は荒れ放題です。
 元々、この国は砂と土でできた山が多いのでこうした地滑りはよくある話なのですが、もう国には国民の安全を守る余力はありません。
 見晴らしのいい開けた土地に出ました。
 目的地はもうすぐなはずです。
 曖昧な言い方になってしまうのは、私には地図もコンパスも与えられていないからです。
 国土の詳細な地図は色々なゴタゴタで失われたそうです。
 今では、町の人がちょっとした目印を記した、地図というよりは絵に近いものがあるだけです。
 ここで、昼食にしようと思いました。
 私は包みを解いて、おにぎりに口をつけました。
 おにぎりは携帯には適していますが、保存には向きません。
 一応、三日分程度の食料を持っていますが、おにぎりは最優先でお腹に入れてしまわないと、いつの間にか腐ってしまったりします。
 こんなところでお腹を壊すのは、ひょっとしたら人生の終わりを意味するかもしれませんので、水と食料の管理は大切なのです。
 つい、お昼寝までしてしまいました。
 春の草地で陽光を受けたら、どうしたって、のーみその睡眠シナプスが通電しメラトニンが分泌するものです。
 まあ、そこで横になってしまった私も悪いのですが。
 若干の罪悪感を感じながら、丘の上の草地を歩きます。
 天気もいいし、お昼寝効果もあってか、すっかり上機嫌で歩き進めます。
――ズルッ
 私は何かに足を取られ、あっという間に重力に引かれてどこかへ滑り落ちていきました。
 あっという間の出来事だったのですが、落ちる瞬間はずいぶんとゆっくりにも感じられました。
 気絶はしていないと思います。
 多少、呆然とはしていましたが。
 まずは、周辺の観察です。
 私が落ちたところがどんなところなのか、私は知らなければなりません。
 そうしないと、あっさりと遭難してしまう可能性がかなり大きいです。
 草地から落ちた先は、やはり草地でした。
 しかし、草の種類がちょっと違います。
 これらは皆、薬草として使われるものばかりでした。
 薬草を探して、薬草の密生地に落っこちたのですから、これほどの幸運はありません。
 私は慎重に草地の切れ目まで歩いてみました。
 そこは崖になっていました。
 つまり、ここは崖っぷちの窪地ということになるのでしょう。
 元の草地へ戻ることはできそうにありません。
 斜面が急すぎます。
 とりあえず、脱出の方法はゆっくり考えることにしました。
 窪地に生えている薬草を観察して回りました。
 どこにでもあるハーブが多くを占めていましたが、中には高値で取引される薬草も生えていました。
 私は、価値があると思われるものを優先して収集することにしました。
 その中で、異様な雰囲気を持った植物を発見しました。
 今まで他の薬草のにおいに混じってしまって分からなかった、強烈な薬品臭がします。
 そして、それは今まで嗅いだことのないにおいでした。
 私の探究心をくすぐるのに五秒と時間はかかりませんでした。
 見たこともない植物なのでなんと形容して良いものか分かりません。
 しかし、私はこれを持ち帰ることが、今回の探索の最大の目的と位置づけました。
 早速、採集してみることにします。
 手で葉をまとめて持って引き抜くと、そこには先が二股に分かれた根が姿を現しました。
「これは?!」
 私の口からは誰も聞く人がいないにもかかわらず、疑問と興奮が漏れ出ていました。
 アルラウネ、もしくはガルゲンメンラインと呼ばれている植物かもしれません。
 だとすると、私が引き抜くよりは、犬に引き抜かせるのが最適だったのかもしれません。
 しかし、強力な薬品臭は未だに植物全体から発散されています。
 しばらく、その植物に見入っていたのですが、私が窪地に取り残されているという現実を思い出し、詳細な研究は無事に家に帰ってからということにしようと思いました。
 私はその植物を回収すると、帰路を拓くための思案に入りました。
 そうして、私は崖を降りることを選び、今まさにロープ一本で崖っぷちにぶら下がっています。
 こんなところで、シングルロープテクニックを使うことになるとは思いませんでした。
 父上殿から教わったときは、そんなもの女の子には役に立たないものだと思っていました。
 しかし、まさに備えあれば憂いなしでした。
 ただ、一つの問題は、あと四メートルほどでロープの長さが足りなくなりました。
 覚悟を決めて、飛び降りられない高さではないと思いますが、万が一、足をくじいて動けなくなったらゲームオーバーです。
 私は咄嗟に水筒のストラップを最大まで伸ばしてロープの端に結びつけました。
 ストラップの長さが一メートル五十センチ。
 残りの高さ、二メートル五十センチ。
 腕を伸ばしきってからロープを離すとして二メートル弱。
 コレならいけると私の本能が告げました。
 先にストラップを失った水筒を崖下に落としました。
 命を守る水を入れる水筒はかなり頑丈にできています。
 これくらいの高さから落としてもびくともしないでしょう。
 そして、背負っている荷物も落とします。少しでも体は軽い方がいいです。
 作戦は成功しました。無事に私は地面の上に立つことができました。怪我もありません。
 私は水筒を荷物袋に入れると、歩き始めました。
 もう、すでに自分がどこにいるのか、よく分かっていません。
 それでも、あの草地から落ちたことを考えると、ここは山を下っていくのが良いのではないかと思いました。
 すぐに、何の手入れもされていない人工林に出ました。
 まずいことになったかもと思いました。
 人工林と言うと人里に近いという可能性もありますが、林業というものがすでに成り立っていないので、大昔の広大な人工林が未だに手つかずのまま放置されているという可能性が大きいです。
 そして、人が減っているわけですから、昔は人工林の近くに集落があったかもしれませんが、今はどうかと言われると、現実はキビシイものです。
 それに、人工林だと等間隔で同じ木が生えているので、かなり注意しないとあっという間に方向感覚を失います。
 私は知らない森に入る時のために用意してあった赤く着色した麻の紐を要所要所の木に結びつけて進みました。
 人工林が無機質にどこまでも続いています。
 あれから、丸二日経過し、三日目の夜を迎えました。
 水筒を振ってみると、チャポンという心許ない音がします。
 私に残された時間もあとわずかのようです。
 携帯用の栄養補給食品も持っているのですが、コレを食べるとモソモソしていて、かなり喉が渇きます。
 確かに栄養を補給することは大切ですが、今、水を無駄にするわけにはいきません。
 私はなめるように、確かめるように、水を一口飲みました。体力的にもかなり限界で、眠気が襲ってきます。
 テントや寝袋などの装備はないので、全く素の野宿をするしかありません。
 春とはいえ、夜は冷え込みます。
 ここで寝たら体力が尽きて天に召されること請け合いです。
 収集した薬草の中に、気付けに使うものがあったので、それを生で食べて目を覚まします。
 夜が白みだして、また、長い一日が始まりそうです。
 水の残りはもうありません。
 私の体力も、持ってあと一日というところでしょう。
 激しい乾きが私を襲います。
 最初のうちは、唾液を飲んでいたのですが、それもあっという間に分泌不全に陥りました。
 だんだんと意識が混濁していきます。
 歩いているのか、立っているのか、座っているのか、それとも倒れてしまったのか、そんなことも分からなくなっていました。
 気がついたときには、私は木に寄りかかるようにして座っていました。どこからか、水の音が聞こえます。
「みず……」
 私の渇望が渇いた喉を忘れてしまった人の言葉を思い出すように震わせます。
 高熱が出たときのような怠さをこらえて、歩きます。
 程なくして、小さな沢に出ました。
 私は生き残ったのです。
 でも、それがいつまで続くかは分かりません。依然として遭難していることは確かなのです。私は沢の水を汲むとゆっくりと乾きを潤しました。このチャンスに栄養補給食品を豊富な水で流し込みました。
 少々の活力が戻ってきたような気がします。
 しかし、これ以上動き回れるほどではありません。
 今後、体力は救助を待つために使うべきだと思いました。
 私は荷物をあらためました。
 荷物袋の一番奥に信号拳銃が入っています。
 救難信号を出すのは今をおいて他にはないだろうと思いました。
 私は信号拳銃を空に向かって突き上げるとトリガーを引きました。
 信号弾は一発だけです。
 これで気付かれなければ、またさらにまずいことになるだろうなという覚悟もありました。
 沢沿いの木に寄りかかって休みました。水を飲み、栄養が補給された体は、すぐに私を深い眠りに誘いました。

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